もがたり

「もが」こと、私・下河原のことを、のんびり語ります。

ひととむきあうこと

今日、しごとの帰り道、「人と向き合う」ことについて改めて考えてました。

今、日々生徒に向き合えてるか。合唱団員のみなさんに向き合えているか。んー、向き合おうとしてるとは思うけど、まだまだ甘いところあるよなぁと。

 

なんでそんなこと考えたんだっけな。きっかけは一本のトゥギャッターの記事だったんですが……それについてはそのうち触れられたら触れたいですね。

そうそう、子育てについて。こどもについて。そこから飛躍して、「誰か別の人生、別の意志に向き合うこと」について、思いを馳せていたんでした。なんとなく思い出した。

 

あ、そうそう。そんなこと書いてたら、ブログのお題でもう一つ思い出しました。

 

今週のお題「おとな」

 

そうか、もうすぐ成人式。いや、僕の中ではそれは今思い出したので関係ないんですが……帰り道、もうひとつ考えてたのは、「おとな」ってことでした。

 

「こども」はいつ「おとな」になるのか。自分はもう「おとな」なのかって……。

今日、ひとつ思ったのは、「おとな」は「自分の選択ができる人」のことじゃないかってこと。

それは法的な選択権のことではなく、もっと主観的で、精神的で、個人的な話として。いや、あるいはもっと社会的なこと……人と関わるという意味で、非個人的なことかもしれませんが。

自分が何を欲していて、何をなそうとしていて、そのために何を用意して何をすべきか、そしてそのすべきことを実行する一連の「選択」の技術というか、意志というか。その総体が、「おとな」であることなんじゃないかって。

 

……まったく言葉としてまとまっていないので、少しもわかりやすく書けないですね(というか自分でもわからない←)

いや、なんとなくあるんですよ。こう、ぼんやりとした回答は……。

 

「忘れ物をしない」ことひとつとっても、子供はまず、「持ち物を、自分と一緒に持っていく」ことからだと思うんです。分類してチェックして……いきなりそんなことを教え込もうとしたって、それは大人の都合。でもこども自身が、何をしたいか、何をすればいいかがわかっていたら、自らの判断でうごきはじめると思うんですよね。

そう、あくまで自分の意志で。だから、「しなさい」ばかりじゃ、こどもはおとなになれないんですよ、きっと。

僕らの中にも、そういう「しなさい」に耳を塞いだ「こども」が、まだまだ眠っている気がします。でもね、不平不満言っているだけじゃ、結局「自分」で「選択」できてないと思うんですよ。それって「おとな」じゃないじゃん、と。

 

どこからが「おとな」というのではなく、そういう小さな「おとな」を積み重ねていった先に、人生が描かれていくのかなぁ、とかとか……。

 

いま、身近で、こどもたちがひとつずつ「おとな」になる練習をする、そのお手伝いができる場所にいるのは、幸運だなぁと、なんとなく思った夜更けです。気持ちを入れ替えて、また明日から。