大好きな音楽を
先週の金曜日、僕は泣いた。最後がいつだったか思い出せないような、大泣きだった。
朝、仕事場で、一人の時だった。
確かその朝は、古い友人から近況を尋ねるメッセージがあって、ひとしきり逡巡してから、僕は思い切ってこう返した。
「ふらふらしながら、大好きな音楽を続けているのですよ。」
僕にしては、かなりストレートな表現だった。何度も、「大好き」という言葉を、考え直そうとした。でもできなかった。これ以外に、表現が思いつかなかった。
迷った挙句、少しヤケクソ気味に、送信ボタンを押した。そしたら、開き直れた気がして、気持ちが吹っ切れた。そのまま僕は足取り軽やかに職場へと走って行った。
そのあと何があったか、詳しく覚えていない。
とにかく、僕はひとり店開けの準備をしながら、泣いた。胸も頭も感情に流されるままに、泣いた。号泣だった。
これだけ泣いた記憶が、それも人前で泣いた記憶が、少なくとも一度ある。大学三年目の夏、合唱団の合宿で、やはり僕は唐突に感情と涙とを抑えられなくなったことがある。
確か、新実徳英作曲の、「祈り」の練習だったと思う。ボーカリーズの続く難曲に、思うように練習が進まない中、おそらくふとした発見が引き金となり、連鎖的に音楽の姿が目の前に現れたのだと思う。その瞬間、音楽の「感情」に、自分の気持ちが強く共鳴し、気持ちが抑えられなくなったのだろう。僕はみっともなく泣き腫らしながら、歌った。隣で歌っていたベースの先輩が、見たこともないような狼狽えた様子で、心配してくれたことを覚えている。
その朝も、きっかけは歌だった。
仔細は覚えていない。吹っ切れたとはいえど、それは自分の不安定な「いま」へまなざしを向けることでもあった。晴れ晴れとした気持ちは、冬の晴れた日の夜のように、よく冷え込む。
明瞭な焦燥感に、ふと、歌の一節が頭をよぎった。
「よそめにはみっともないって?」
「そんなことはどうでもいい」
気づいたときには、涙が零れていた。
頭の中を、言葉になりきらぬ言葉が駆け巡った。
胸の奥から、とめどなく感情の奔流が溢れていった。
僕の心の欲するものを、与えられたようだった。この一時だけでも、赦されたようだった。僕はただ嗚咽し、ひとり慟哭した。
手は動かしながら、それでもわんわんと泣き続ける男の姿は、傍目から見たら、さぞみっともなかっただろうと思う。
でも、そんなことは、もう関係なかった。僕は、僕の気持ちだけに押し流され、立ち尽くしていた。
そうして泣いて、確信した。
この曲を、僕はもう、僕のためにやれるだろうと。
委嘱初演の指揮者として、団体の指導者として、その責任のためにではなく。あるいは見栄のためでもなく。
ただ好きな曲ではなく、愛する曲となった、そんな気がした。僕の中の恥ずかしいところを曝け出して、ただ「大好きな音楽」をやれるという確信が、たしかにあった。
今こそ、自信を持って、みんなに聴いて欲しいと思う。僕の、大好きな音楽を。
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ちょうど3ヶ月後の今日、僕にとって3年ぶりになる「組曲」を振る。
西下航平氏による
とても美しい曲たちである。
ぜひ、会場で聴いていただきたい。