もがたり

「もが」こと、私・下河原のことを、のんびり語ります。

桜の季節

桜がすっかり咲いてしまった。益楽男のホームページに寄稿するつもりだったけど、遅れてしまってお蔵入りになっていた文章、ちょっと寂しいのでここに載せてしまおうと思う。

 
 
***
 
原稿を書いたのは、3/21の益楽男演奏会の、確か2日前?
 
***
 
 
そういえば、もうすぐ桜の季節だ。また今年も、春がやってくる。別れと、出逢いの季節が。
 
***
 
春の訪れは、梅が教えてくれる。僕にとっては、もう何年もそうだった。春を象徴するものは多いが、一番早いのが、道の傍らに立つ梅の木の、枝先の蕾が幾つかほころんだ時。地元に梅が多く、家からの道すがら何本か梅の木が立っているから「春といえば梅」と思っているものの、大抵気づいた時には三分咲きになっていて「おや、いつの間に」となる。まだ春の気配も薄い、寒い冬の日のことである。
 
日も過ぎ、梅が咲き揃う頃、春一番が吹き暖かくなる日がある。「もう春かな」と漸く思うが、当の春はといえば、思わせぶりな気配だけ振りまいてすぐどこかへ行ってしまう。そうしていっそう厳しい寒さが帰ってくる。その度に、毎年「三寒四温」なんて四字熟語を思い出す。
 
個人的には、花粉症も春を感じるひとつの出来事であったりする。あまりいい気持ちの春ではないけれど。でも身体の方は正直で、辛い戦いの日々を嫌でも思い出させられてしまう。くそう、今年はどうやって誤魔化そうか。
 
***
 
そうやって、いくつもの「春」がやってきて、最後に桜がやってくる。そうだ、もうすぐ桜の季節だ。そのことに思い至って、僕の胸には、ひとつの景色がよみがえっていた。きっとこの先、忘れることはないであろう、ひとつの景色が。
 
***
 
この季節に、2人の人とお別れをした。もうすぐ、ちょうど1年になる。1人は祖父で、もう1人は合唱つながりの友人。祖父を見送ったのは桜の咲き誇るよく晴れた日だった。桜の好きな人だったから、きっと祖母と一緒に仲良く花見でもしているだろう、そんなことを家族みんなで話して、笑った。祖父を見送った帰り道に友が逝ったと知らせを聞いた。いつも笑顔で、よく話を聞いてくれた、その笑顔をもう見れないことは、僕の胸をひどく締め付けた。その事実は未だによく飲み込めていないかもしれない。
 
まだ咲く前の桜の匂いが、はっきり思い出されるように、その時の胸の痛みもまた、今はっきりと思い出している。すっかり薄らいだかと思っていたのに、そんなことはなかったらしい。けど、仕方ないよな。2人ともそれぞれに、僕の大切な人だったもの。
 
***
 
墓前に捧ぐ、という漠然としたフレーズが過去の記憶を刺激したらしい。別に、明示されるテーマではないが、今回、益楽男の演奏会の最後を締める『天球の調和』の終曲「ゲーテの歌」の底には、そんな「祈り」がある。
 
この詩は、京都大学教授にして京都学派の先駆、哲学者・西田幾多郎が、同僚教授であり弟子であった九鬼周造の墓に刻んだ一編の訳詩が元になっている。原詩は、J.W.ゲーテの「旅人の夜の歌(Wanderers Nachtlied)」という、短い8行詩である。
正確を期すならば、西田の筆によるものを、(他の誰かが九鬼の墓石へと)刻んだと言うべきだろう。一説によれば、それは彼の絶筆であるらしい。
 
先日、京都にあるその墓を訪ねた。東山に座す法然寺、その傍らにある墓地に、他の墓石に並んでひっそりと立っている。「九鬼周造之墓」と、まっすぐな字に出迎えられる。これも西田の揮毫によるそうだ。真っ直ぐで、どこか不器用さすら感じる筆遣いに、気迫のようなものを感じて、僕はその場で暫時立ち尽くしてしまった。
 
その墓石の右側面に、静かな面立ちで、その詩が刻みつけられている。
 
ゲーテの詩 寸心
見はるかす山々の頂
梢には風も動かす 鳥も鳴かす
まてしはし やかて汝も休らはん
 
題と号の記された行を含めても4行、言葉数少なく、簡素にまとめられた詩は、静謐を纏ってそこにあった。そこに込められた祈りには到底想いも及ばなかったが、その筆遣いから、西田の息遣いまでもが伝わってくるようで、しばし、その佇まいを食い入るように見つめていた。
 
***
 
ゲーテがこの詩を書いたのは31歳の頃。あまり広くは知られていないことだが、彼には詩人の他に、政治家としての顔もあった。この頃にはザクセン・ワイマルの政治家として、その手腕を遺憾なく発揮している。激務の間に、街の喧騒を逃れるようにして登ったキッケルハーン頂上付近の、山小屋の壁に鉛筆で書き付けたと言われている詩。出版はその35年後になってからのことで、詩集の中で、「旅人の夜の歌」と冠する別の詩の後に「同題」として出版したため、この名で知られているらしい。ゲーテ自身は、「憩いの歌(das Ruhelied)」とも呼んでいたそうだ。
 
そして、詩を書きつけてから51年後、1831年8月27日に再びその山小屋を訪れたゲーテは、その詩がまだ壁に残っているのを見つけ、涙を流したという。詩人の胸を走った想いの深層は知る由もないが、若き日を顧み、詩を読み、彼の心に立ち現れたであろう風景は、おそらく半世紀を経て「死」を知った一人の人間が見出したものだったのではないか。その時、彼もまた大切な人を亡くしていた。カール・アウグスト、ザクセン・ワイマル大公。ゲーテを高く評価し、公国へ招き、彼を政治に関わらせたその人である。1774年の出会いから半世紀余り、ゲーテと深い信頼と友情を築いた。そのアウグスト公も、1826年にゲーテを置いて世を去った。
 
憩い(Ruh)とは、ドイツ詩において、しばしば死の安らぎを表す言葉である。そこに囚われては、この詩の全てを味わうことは出来ないだろうが、どうしても忘れたくはない言葉でもある。
 
「やかて(やがて)汝も休らはん」そう西田が唄ったように。或いは、「アウグスト公は、もうこの世にはいらっしゃらないのだ」と、ゲーテが嘆いたように。この詩に関わった2人の人間の、死へと向けたまなざしのことを忘れては、この曲は歌えない、とも思う。
 
***
 
終曲「ゲーテの歌」は、「休らうことのできない人間」の在り方を写し取ったかのような、混沌とした中間部を抜けると、秩序だった終結へと向かって、音楽が生成・発展していく。何かを受け入れるかのように、幸福な音で満たされていく。浄化されるように、納得するかのように、音楽は「完成」へと向かう。その精神性へ、問いと気持ちのみで届き得ないとしても、その音楽に向かって、ただ進んでみたいと思う。
 
***
 
僕の忘れられない桜の景色というのは、実は咲いている桜のそれではない。
4月も始まったばかりの頃、朝の道行きの途中で桜並木に目が止まった。満開だった花が、幾許か散り、そこに、萌え出たばかりの若葉が揺れていた。
 
散りゆく命が、まるで新しい命に席をゆずるように。
 
桜は、花が散るのと入れ替わりで、葉が出る。そのこと自体はありふれた景色のはずだった。だから、間違いなく、その景色に心が揺れたのは僕自身の感傷のせいだ。当時の手帳に、その感傷をどうにかして残そうとした痕がある。
 
葉桜や 散りし命に 芽吹くあお
 
何気ないその風景は、僕の目に途方もなく美しく、掛けがえないものに映った。それは救いのようですらあった。
 
***
 
1週間前、九鬼の墓前で手を合わせて、心の中で呼びかけた。
 
「お二人のことばを、歌にして歌います。いい曲が出来ました。」
 
そう心に発した時、胸からこみ上げてきたものの熱さを忘れることが出来ずにいる。
 
「いい曲が出来ました。」
 
亡き祖父と友のことを思い出し、そう心に繰り返して、同じ熱さがこみ上げてきた。
それはなんなのだろう。誇り? 自信? それとも背負うものの重みだろうか。
きっと、正体なんてどうでもいい。いや、もう本質は言ってしまっているのかもしれない。
 
「いい曲が出来ました。だから、どうか聞き届けてください。」
 
一人でも多くの方と一緒に、この曲と出逢うことが出来ますように。いま一度、こう言おう。
 
 
 
また春がやってくる。別れと、出逢いの季節が。
 
 

音楽を携えて、夜道を歩く

深夜3時。静かに目が覚めた。目覚ましをかけたわけでもない。普段ならぐっすり眠っている時間だ。

今にして思えば、虫の知らせだったとしか言いようがない。僕は起きぬけにスマートフォンの通知画面を確認し、待ち望んだ報せがそこにあることに気づいた。

数瞬、逡巡した後、逃げ出すように夜の街へと駆け出した。

男声合唱とピアノのための組曲「天球の調和」、第二曲、「絶望の逃走」が届いた日のことだ。年を跨ぎ、待望の新曲を手に入れた帰り道、真っ暗な夜道で街灯のかすかな明かりを頼りに、夢中になって楽譜を読んだ。ピアノのモチーフに心が昂り、鋭いリズムで走り抜けていく言葉たちに、身が震えた。根拠もなく、僕の漠然としたイメージが、曲にカチリとはまって、形を成していくのを感じていた。帰宅してすぐにデモ音源を落とし、楽譜を眺めながら聴く。二周する頃には、すっかりイメージが出来上がっていた。そのまま、夜通し、貪るように繰り返した。

この時の僕の興奮ぶりは、筆舌に尽くしがたい。なぜこんなにも興奮していたのか、自分でも言葉にできないし、抱いた切実な想いを伝えられないことは、とてももどかしかい。

ただ、音楽が僕自身に共鳴するかのような、そんな体験だった。翌週の練習では、もう譜面を見ずに振ることが出来るほどに、自然と音楽が染み込んでいた。西下さんの書く曲の、自然さがそうさせたのかもしれない。あるいは、単に僕が西下さんの音楽を好きなだけなのか。

そうして、それから3週間。3曲目、「個性について」が届いた。つい2日前の、深夜のことだ。

先日と同じく、深夜の暗い街路を抜け、引き返す道すがら譜面を眺める。2段読んで頷き、見開きに並んだ2ページを見て確信した。そして止まない興奮を抑えつけながら家路を急いだ。そのとき見えていたものは、歩き慣れたいつもの街並みではなく、壮大な音楽の風景だった。


「個性について」は哲学者・三木清の「人生論ノート」(青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html )に「附録」として収められた小論文であり、後記に記された言葉によれば、三木が大学卒業前に初めて公の機関へ寄稿した文とのことである。三木自身は「この幼稚な小論」と呼んではいるが、「自分の思ひ出のために」後の出版物に再録するだけの思い入れがあったのだろうか、その文章は若き哲学者の想念が溢れるままにぶつけられたかのように、どこか詩的でもあり、思想だけでなく、夢や理想や「情意」に溢れている。

当初、京都学派の哲学者の詩文を中心に選詩し、仮題を「天球の音楽」として委嘱されたこの組曲は、後に萩原朔太郎の「絶望の逃走」を加え、再構成されて、今、組曲「天球の調和」として全ての曲が揃った。「個性について」は特に、当初の選詩方針を色濃く残す作品である。
これほど長い「詩」に曲をつける作業は、相当な困難を極めただろう。大小7度は書き直しをしたという西下さんの言葉の裏にある苦闘は、想像もできない。

ただ、僕たちにとっては、こうして目の前に、美しい音楽として命を吹き込まれた、一編の歌があるだけである。

繊細に、時には大胆に選り分けられた言葉たちが、歌の響きとともに届いてくる。音楽も助けてのことか、元の文の持つ流れは損なわれておらず、すんなりと胸の内まで届く。

10分に及ぶ大曲が、こうして生まれ、珠玉の4曲からなる組曲が、終に全ての姿を現した。

譜面に目を通した瞬間から、名曲が出来上がったという確信が僕の中を駆け巡っている。4曲それぞれの楽想が浮かんでは消え、1つの全体を形作ろうとしている。この風景を、メンバーと、そして1人でも多くのお客様と共に眺められることを祈りながら、2月最後の夜道を歩く。

いよいよ3月になる。益楽男グリークラブ第二回演奏会まで、あと21日ーー。

***

本記事は、益楽男グリークラブ公式サイトの「ひとりごと」への寄稿文です。http://masuraoglee.web.fc2.com/mutter/mutter011.html

星の夜空の 〜忘れられない夜空の話〜


真っ黒な・・・まっさらな、夜空に、星の光。



******



空、ということばを聞くと、どうしても思い出す風景がある。

それは、実際には僕が見た空ではない。そんな夜空の話である。


話は、大学時代に遡る。僕が、慶應義塾のサークルの1つ、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団というところで学生指揮者になった頃、初舞台の時の話。

舞台は、東北・石巻。現地のOB会である石巻三田会からお声がけいただき、現地の小学校の体育館で小さな演奏会をした。震災から1年、音楽で応援を……そんな依頼だったから、もちろん身も心も引き締まる思いで臨んだことを覚えている。指揮者として初めて花束を受け取った、そんな思い出もある、僕にとって忘れ得ない、幸せな舞台だった。

ほとんどの団員が、日帰りバスツアーよろしくの強行軍だったのだが、僕は数人の部員とともに1日の延泊をさせていただいた。この地の生の姿を自分の目で見ていって欲しい。そんな先輩方のお心遣いだった。
夜は食事の席を用意していただき、酒を酌み交わしながら、話に花を咲かせる。こうして先輩方と共に食べ、呑み、話す楽しい夜は、以降も各地の依頼演奏などで経験することになるのだけれど、この東北の一夜は、そんな記憶の彩りを殊更に鮮やかにしてくれている。
その日はホテルを用意していただき、翌日、街を案内してもらうことになった。



2011年3月11日は、あらゆる人にとって転機であっただろう。



あの日、多くのものを奪われた地の1年後を、間近で見せていただいた。

海沿いの街は、「何もない」としか、形容しようがなかった。

瓦礫や壊れた建物の撤去があらかた終わり、辺りには更地が広がっていた。実際のところは、やっとそこまで進んだのだろう。何もない景色はまるで、「ゼロ」と言っているかのようだった。
見てそれとわかる爪痕も、ところどころにはあったけれど、痛々しさより、寂寞感が募る景色だった。

海沿いに近づくにつれ、景色に変化があった。ふとした一瞬が、それまでの茫漠とした気分でいた僕を貫いた。

ただ道を走っているものだと思っていた。でも、信号機の立つ位置が、走っている道と食い違っている。おかしいな、と思った。そこでようやっと気づいた。自分たちの走っている道の脇に、もう一つ、「本来の」道が、あったことに。もう走ることが叶わない、水と土に埋もれた姿で。水たまりの下に覗く中央線は、決して僕の日常では見ることがないだろう景色だった。ほんの数メートル先に異世界を見たような気分だった。

何もないゼロの景色も、水底のアスファルトも、僕の想像していた景色ではなかったけれど、それが被災地の、リアルな姿だったのだと思う。


そのあとも、色々な話を伺いながら、海沿いの街を歩いた。あの日、多くの建物が水の下に沈んだこと。会社の屋上で難を逃れたこと。

そして、その晩、すべてを奪われた地上から見た星空は、ただ美しかったこと。



まるで自分が見たかのように、その夜空は、僕の心に焼き付いている。悲劇でも美談でもなく、ただ素朴に語られた一夜の風景が。


***


自然を歌おう。
石巻の後、学生指揮者の一年を通して僕の心を密やかに貫いていたひとつの想いだ。人の悲しみや怒りではなく、自然を歌ってみたい、と。なぜ、という問いへの答えは未だ持たないけれど、今も静かに心の中にある願いのひとつだ。

景色は、意思を持たない。自然の景色を眺めるとき、そこに意味を見出すのは、人間の側だ。自然は私たちの意思も事情も汲むことなく、ただ其処に存在している。
そんな風景を前にすると、ときおり、紡ぐより早く、語る言葉を攫われてしまう気がする。
そうして、無地のキャンバスを前にしたかの如く、思考は一呼吸、立ち止まる。心を奪われる。

自然には善悪はなく、ただそこに存在しているだけ。そこに人が何を見出すのか、ということは、答えがわからなくとも、見つめ続ける価値のあることだと、僕はそんな風に感じている。


***


今回、益楽男グリークラブの第二回演奏会で初演する「天球の調和」にも、夜空は登場する。天球というと、やはり、星と夜空、というのが相場なのかもしれない。


星の夜空の
空の彼方(おち)から響いてくる
天球の旋律だ


組曲の一曲目を飾る「人生の踊り」の最後の一節。透明感あふれるピアノとコーラスのアンサンブルに、ふと、未だ見ぬ夜空を思い出す。

意思を持たぬ風景としての星空と相対して、自らの内側から溢れてくるものを止められなくなるような、激しい感情を。感動を。


おお、美しい音樂。
旋律が圓を描く
あの天球(スファイラ)の
奏でる調和


まっさらな、黒のキャンバスに光の描く幾何学模様は、いったい人に何を語りかけてくるのだろうか。

星空に向かって、僕らは、いったい何を歌うだろうか。

願わくば、一度きりの、生まれたばかりの感動を……。

大好きな音楽を

先週の金曜日、僕は泣いた。最後がいつだったか思い出せないような、大泣きだった。

朝、仕事場で、一人の時だった。
確かその朝は、古い友人から近況を尋ねるメッセージがあって、ひとしきり逡巡してから、僕は思い切ってこう返した。

「ふらふらしながら、大好きな音楽を続けているのですよ。」

僕にしては、かなりストレートな表現だった。何度も、「大好き」という言葉を、考え直そうとした。でもできなかった。これ以外に、表現が思いつかなかった。
迷った挙句、少しヤケクソ気味に、送信ボタンを押した。そしたら、開き直れた気がして、気持ちが吹っ切れた。そのまま僕は足取り軽やかに職場へと走って行った。

そのあと何があったか、詳しく覚えていない。

とにかく、僕はひとり店開けの準備をしながら、泣いた。胸も頭も感情に流されるままに、泣いた。号泣だった。


これだけ泣いた記憶が、それも人前で泣いた記憶が、少なくとも一度ある。大学三年目の夏、合唱団の合宿で、やはり僕は唐突に感情と涙とを抑えられなくなったことがある。
確か、新実徳英作曲の、「祈り」の練習だったと思う。ボーカリーズの続く難曲に、思うように練習が進まない中、おそらくふとした発見が引き金となり、連鎖的に音楽の姿が目の前に現れたのだと思う。その瞬間、音楽の「感情」に、自分の気持ちが強く共鳴し、気持ちが抑えられなくなったのだろう。僕はみっともなく泣き腫らしながら、歌った。隣で歌っていたベースの先輩が、見たこともないような狼狽えた様子で、心配してくれたことを覚えている。


その朝も、きっかけは歌だった。
仔細は覚えていない。吹っ切れたとはいえど、それは自分の不安定な「いま」へまなざしを向けることでもあった。晴れ晴れとした気持ちは、冬の晴れた日の夜のように、よく冷え込む。
明瞭な焦燥感に、ふと、歌の一節が頭をよぎった。





「よそめにはみっともないって?」

「そんなことはどうでもいい」





気づいたときには、涙が零れていた。
頭の中を、言葉になりきらぬ言葉が駆け巡った。
胸の奥から、とめどなく感情の奔流が溢れていった。
僕の心の欲するものを、与えられたようだった。この一時だけでも、赦されたようだった。僕はただ嗚咽し、ひとり慟哭した。

手は動かしながら、それでもわんわんと泣き続ける男の姿は、傍目から見たら、さぞみっともなかっただろうと思う。
でも、そんなことは、もう関係なかった。僕は、僕の気持ちだけに押し流され、立ち尽くしていた。

そうして泣いて、確信した。
この曲を、僕はもう、僕のためにやれるだろうと。

委嘱初演の指揮者として、団体の指導者として、その責任のためにではなく。あるいは見栄のためでもなく。

ただ好きな曲ではなく、愛する曲となった、そんな気がした。僕の中の恥ずかしいところを曝け出して、ただ「大好きな音楽」をやれるという確信が、たしかにあった。

今こそ、自信を持って、みんなに聴いて欲しいと思う。僕の、大好きな音楽を。


===


ちょうど3ヶ月後の今日、僕にとって3年ぶりになる「組曲」を振る。

西下航平氏による
男声合唱とピアノのための組曲『天球の調和』

とても美しい曲たちである。

ぜひ、会場で聴いていただきたい。

f:id:mogatali:20151221230846j:image

手帳は、僕のいちばんの理解者。

11月も10日を数えるようになると、なんとなく12月のことを考え始めてしまう。もう今年も終わる。年が変わる……。

年の瀬の気配を感じるころ。心は無意識に新しい年を迎える準備をしている。街はそれを見逃してはくれない。
クリスマス商戦は早いよ、と思うのだけれど、同じ時期に幅をきかせる手帳売り場のことは、すんなり受け入れてしまう。受け入れるどころか、ふらふらとした足取りで吸い寄せられるように売り場へ向かうと、小一時間そこで過ごしたりする。結局、買うわけでもないのに、繰り返し繰り返し。足を向けないまでも、手帳の文字が目に入ると、気になる。そちらに行きたくなる。もうほとんど、誘蛾灯に向かう一匹の虫のように、それは僕の習性になってしまっている。

文房具好きの性だろうか、あてどもなく幾つもの商品を見比べるのは楽しい。いろんな手帳をあれこれ見て、見詰めて、見比べて。手帳たちの個性に驚かされたり、ニヤっとしたり、これだ! と膝を打たんばかりに得心したり、時には似たり寄ったりな機能性に勝手に失望したり。それ自体がちょっとした娯楽の時間だ。

それはまた大袈裟に言うなら「自分と向き合う時間」でもある。

手帳を探すとき、僕には理想の手帳像なるものがあるらしい。漠然とした理想と目の前の手帳を比べて、気に入ったものは頭の中の買いたいリストに加わっていく。手帳は毎年出るものだし、気になった手帳を追いかけていると少しずつ手直しがされていたりして、面白い。

あれこれ比較をするなかで、自分のひとつひとつの価値観に気づくことがある。自分が手帳を通して暮らしをどう変えたいと思っているか。飛躍するなら、生活を変えた先に、どんな人生を生きたいと思っているのか。手帳選びは自分選びである、というのは少々大仰だろうか。

手帳というのは未来を書き込むものだし、過去を書き留めるものでもある。それは人生の計画であり記録であるのだから、自分を色濃く写すもの、とは言えるんじゃないだろうか。

===

他の文具などに比べても、手帳に対する関心は僕の心のひときわ大きな部分を占めているように思う。一年を通して付き合う、その一冊の存在感というのは、こうして見つめ直してみるととても大きいのだなと気づく。



手帳は、僕のいちばんの理解者だ。



それは決して気の利いた言葉で答えてはくれないし、たくさんの愛情を注いでくれるわけでもないけれど、僕のことばを、分け隔てなく、ただあるがままに受け止めてくれる。僕の喜怒哀楽を。夢を。絶望を。愚痴も自慢も、ため息でさえも。僕自身ですら、僕を嫌いな僕がいて、自分のことばに耳を貸そうなんて思えない時があるのに。手帳にはそんなことはない。手帳を前にした時だけ、僕はすべてをさらけ出せる。



いつも傍らにいて、構って欲しいときに構ってくれる。そんな自我持たぬ友人の存在の大きさを、しみじみ思い知る。

===

毎年新しい候補も検討するのだけれど、このところ相棒は決まって同じシリーズ。今年もめぼしい対抗馬がいない。仕方がない。またかよ、なんてちょっと文句を言いつつも、またよろしくな、そう笑って声をかけに行こう。


f:id:mogatali:20151110230916j:image

本番の月

昨日、所属する男声合唱団「タダタケを歌う会」のコンサート「第肆」が催され、無事盛会のうちに終わった。関係された皆様に改めて御礼を申し上げたく、また次の演奏会に向けての想いを新たにした。

9月と10月は、自分にとって本番の月だった。大小様々な会場で、8つの本番。これだけ歌ったのは、大学の合唱団を引退して以来、いや合唱人生で最も多かったかもしれない。芸術の秋などと嘯く余裕もなかった。
正直なところ、後半は失速気味で、お世辞にも全てに対して万全の準備ができたとはいえない。それについては、ただただ悔しい。それでも、その時々の本番に対して真剣に向き合ったつもりで、その分見えるようになった景色も、多かったように思う。特に、様々なホール、スタジオで歌えた経験は、貴重だった。短いスパンで、多様な音響に触れられたことは、幸せな経験だった。とにかく、今は安堵の気持ちが強い。

振り返ると、この2ヶ月、あるいは4ヶ月ほどのあいだ、いつになくバタバタとしていた。幸い、心塞ぐ出来事も続いていて、とにかくやることのある日々は、とにかく生きることを僕に強いてくれたように思う。決して命を諦めるようなことはなかったろうが、それでも日々を生きることに疲れてしまうこともある。肉体的な疲労などはあったにせよ、日々の理由の連続がかえって僕を立たせ続けていたのだと思う。

ひとまず、ここまでやり終えた自分を認めてやろう。よくやった。まだ未熟なことも多いが、肥やしもたくさん得ただろう。まずは休め。そしてまた歩め、と。

===

歩み続けるということが、成長の唯一の方法だと気付く機会があった。ピアノのレッスン、3年半を過ぎて、随分できることが増えた。進歩のなかなか見えない時もあるけれど、とにかく辞めるなという師匠の言葉を信じ、月2回のレッスンはとにかく行くと決めて、続けてきた。最近は、月3回に増やしていただきながら、ようやっと、次のステージに踏み込めるのかな? という気もしている。


思い返せば、どんなに僅かずつであっても、進んでいた。一歩、些細であっても進歩があった。ピアノ以外を考えても、音楽全般の能力が、ちゃくちゃくと変質してきている。結局、だから諦められないのだろう。僕はまだこの先を見れる。そう願ってしまう。
先が見えなくたって、歩きたいのだ。せめて願って、歩き続けよう。

===

今日練習を終えて、ようやく10月が終わった気がしている。楽しく充実した時間が嵐のように過ぎ去り、ひとまずあとに残されたのは、散らかった様々なものたち。今一度、身の回りのことから、ゆっくりと立て直していきたいなと思う。

少年から青年へ

つい先日のこと。仕事の合間、駅のホームでぼんやりとしていたところに、声をかけられた。

「下河原先生、お久しぶりです!」

若々しい、爽やかな声に振り返ると、声の通りの好青年が立っていた。はて、こんな美男子の知り合いがいたかしら……なんて取り留めのない疑問も、彼が名乗ってくれたことで、すぐに解決する。昔の教え子だった。なくなってしまった学習塾だけれど、そこでのことはよく覚えている。彼はそこで教えていた、僕の最も古い生徒のひとりだ。数年越しに再会した面影に、僕は懐かしさとともに驚きを感じていた。月並みだが、大きくなったなぁ、とついそんな内容のことを口にしていた。

中学生の頃にあって、あの頃はやんちゃな男の子だったのに、今や働き始めて、いよいよ1人の大人なのだ。言葉のひとつひとつに丁寧な気持ちが滲んでいて好感のもてる、礼儀正しいふふまい。少年から青年への成長を目の当たりにした気持ちだった。そして、素直に再会を喜んでくれているように感じた。それがまた、こそばゆくて、僕はどことなく言葉少なになってしまっていたかもしれない。

担当した生徒というのはどの子にも情が湧くもので、その中でも、彼ともう1人の生徒のことは強い印象として残っている。仲のいい2人で、2人いっぺんに授業をしようものなら雑談に発展してしまって仕事にならないことなんて、日常茶飯事だった。そうやって毎週のように顔を合わせて、笑いあって、夢も悩みも打ち明けていれば、どうしたって気にかけるし、力になりたいと思うようになる。心の中で、存在感が大きくなる。そしてそれは、長くて3年ほどの、人生から見たらわずかな一時である。つまるところ、僕の中で、彼らは今も少年の姿のままなのだ。

一駅のあいだ隣の席で他愛もない話をして、彼は電車を降りて行った。希望の仕事に進んで、ひたむきに日々を暮らしているであろう彼の姿は、僕を大いに奮い立たせた。僕も負けじと、頑張らねばなるまい。心の奥で、ささやかに、種火が起こったのを感じていた。