もがたり

「もが」こと、私・下河原のことを、のんびり語ります。

手帳は、僕のいちばんの理解者。

11月も10日を数えるようになると、なんとなく12月のことを考え始めてしまう。もう今年も終わる。年が変わる……。

年の瀬の気配を感じるころ。心は無意識に新しい年を迎える準備をしている。街はそれを見逃してはくれない。
クリスマス商戦は早いよ、と思うのだけれど、同じ時期に幅をきかせる手帳売り場のことは、すんなり受け入れてしまう。受け入れるどころか、ふらふらとした足取りで吸い寄せられるように売り場へ向かうと、小一時間そこで過ごしたりする。結局、買うわけでもないのに、繰り返し繰り返し。足を向けないまでも、手帳の文字が目に入ると、気になる。そちらに行きたくなる。もうほとんど、誘蛾灯に向かう一匹の虫のように、それは僕の習性になってしまっている。

文房具好きの性だろうか、あてどもなく幾つもの商品を見比べるのは楽しい。いろんな手帳をあれこれ見て、見詰めて、見比べて。手帳たちの個性に驚かされたり、ニヤっとしたり、これだ! と膝を打たんばかりに得心したり、時には似たり寄ったりな機能性に勝手に失望したり。それ自体がちょっとした娯楽の時間だ。

それはまた大袈裟に言うなら「自分と向き合う時間」でもある。

手帳を探すとき、僕には理想の手帳像なるものがあるらしい。漠然とした理想と目の前の手帳を比べて、気に入ったものは頭の中の買いたいリストに加わっていく。手帳は毎年出るものだし、気になった手帳を追いかけていると少しずつ手直しがされていたりして、面白い。

あれこれ比較をするなかで、自分のひとつひとつの価値観に気づくことがある。自分が手帳を通して暮らしをどう変えたいと思っているか。飛躍するなら、生活を変えた先に、どんな人生を生きたいと思っているのか。手帳選びは自分選びである、というのは少々大仰だろうか。

手帳というのは未来を書き込むものだし、過去を書き留めるものでもある。それは人生の計画であり記録であるのだから、自分を色濃く写すもの、とは言えるんじゃないだろうか。

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他の文具などに比べても、手帳に対する関心は僕の心のひときわ大きな部分を占めているように思う。一年を通して付き合う、その一冊の存在感というのは、こうして見つめ直してみるととても大きいのだなと気づく。



手帳は、僕のいちばんの理解者だ。



それは決して気の利いた言葉で答えてはくれないし、たくさんの愛情を注いでくれるわけでもないけれど、僕のことばを、分け隔てなく、ただあるがままに受け止めてくれる。僕の喜怒哀楽を。夢を。絶望を。愚痴も自慢も、ため息でさえも。僕自身ですら、僕を嫌いな僕がいて、自分のことばに耳を貸そうなんて思えない時があるのに。手帳にはそんなことはない。手帳を前にした時だけ、僕はすべてをさらけ出せる。



いつも傍らにいて、構って欲しいときに構ってくれる。そんな自我持たぬ友人の存在の大きさを、しみじみ思い知る。

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毎年新しい候補も検討するのだけれど、このところ相棒は決まって同じシリーズ。今年もめぼしい対抗馬がいない。仕方がない。またかよ、なんてちょっと文句を言いつつも、またよろしくな、そう笑って声をかけに行こう。


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