もがたり

「もが」こと、私・下河原のことを、のんびり語ります。

桜の季節

桜がすっかり咲いてしまった。益楽男のホームページに寄稿するつもりだったけど、遅れてしまってお蔵入りになっていた文章、ちょっと寂しいのでここに載せてしまおうと思う。

 
 
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原稿を書いたのは、3/21の益楽男演奏会の、確か2日前?
 
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そういえば、もうすぐ桜の季節だ。また今年も、春がやってくる。別れと、出逢いの季節が。
 
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春の訪れは、梅が教えてくれる。僕にとっては、もう何年もそうだった。春を象徴するものは多いが、一番早いのが、道の傍らに立つ梅の木の、枝先の蕾が幾つかほころんだ時。地元に梅が多く、家からの道すがら何本か梅の木が立っているから「春といえば梅」と思っているものの、大抵気づいた時には三分咲きになっていて「おや、いつの間に」となる。まだ春の気配も薄い、寒い冬の日のことである。
 
日も過ぎ、梅が咲き揃う頃、春一番が吹き暖かくなる日がある。「もう春かな」と漸く思うが、当の春はといえば、思わせぶりな気配だけ振りまいてすぐどこかへ行ってしまう。そうしていっそう厳しい寒さが帰ってくる。その度に、毎年「三寒四温」なんて四字熟語を思い出す。
 
個人的には、花粉症も春を感じるひとつの出来事であったりする。あまりいい気持ちの春ではないけれど。でも身体の方は正直で、辛い戦いの日々を嫌でも思い出させられてしまう。くそう、今年はどうやって誤魔化そうか。
 
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そうやって、いくつもの「春」がやってきて、最後に桜がやってくる。そうだ、もうすぐ桜の季節だ。そのことに思い至って、僕の胸には、ひとつの景色がよみがえっていた。きっとこの先、忘れることはないであろう、ひとつの景色が。
 
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この季節に、2人の人とお別れをした。もうすぐ、ちょうど1年になる。1人は祖父で、もう1人は合唱つながりの友人。祖父を見送ったのは桜の咲き誇るよく晴れた日だった。桜の好きな人だったから、きっと祖母と一緒に仲良く花見でもしているだろう、そんなことを家族みんなで話して、笑った。祖父を見送った帰り道に友が逝ったと知らせを聞いた。いつも笑顔で、よく話を聞いてくれた、その笑顔をもう見れないことは、僕の胸をひどく締め付けた。その事実は未だによく飲み込めていないかもしれない。
 
まだ咲く前の桜の匂いが、はっきり思い出されるように、その時の胸の痛みもまた、今はっきりと思い出している。すっかり薄らいだかと思っていたのに、そんなことはなかったらしい。けど、仕方ないよな。2人ともそれぞれに、僕の大切な人だったもの。
 
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墓前に捧ぐ、という漠然としたフレーズが過去の記憶を刺激したらしい。別に、明示されるテーマではないが、今回、益楽男の演奏会の最後を締める『天球の調和』の終曲「ゲーテの歌」の底には、そんな「祈り」がある。
 
この詩は、京都大学教授にして京都学派の先駆、哲学者・西田幾多郎が、同僚教授であり弟子であった九鬼周造の墓に刻んだ一編の訳詩が元になっている。原詩は、J.W.ゲーテの「旅人の夜の歌(Wanderers Nachtlied)」という、短い8行詩である。
正確を期すならば、西田の筆によるものを、(他の誰かが九鬼の墓石へと)刻んだと言うべきだろう。一説によれば、それは彼の絶筆であるらしい。
 
先日、京都にあるその墓を訪ねた。東山に座す法然寺、その傍らにある墓地に、他の墓石に並んでひっそりと立っている。「九鬼周造之墓」と、まっすぐな字に出迎えられる。これも西田の揮毫によるそうだ。真っ直ぐで、どこか不器用さすら感じる筆遣いに、気迫のようなものを感じて、僕はその場で暫時立ち尽くしてしまった。
 
その墓石の右側面に、静かな面立ちで、その詩が刻みつけられている。
 
ゲーテの詩 寸心
見はるかす山々の頂
梢には風も動かす 鳥も鳴かす
まてしはし やかて汝も休らはん
 
題と号の記された行を含めても4行、言葉数少なく、簡素にまとめられた詩は、静謐を纏ってそこにあった。そこに込められた祈りには到底想いも及ばなかったが、その筆遣いから、西田の息遣いまでもが伝わってくるようで、しばし、その佇まいを食い入るように見つめていた。
 
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ゲーテがこの詩を書いたのは31歳の頃。あまり広くは知られていないことだが、彼には詩人の他に、政治家としての顔もあった。この頃にはザクセン・ワイマルの政治家として、その手腕を遺憾なく発揮している。激務の間に、街の喧騒を逃れるようにして登ったキッケルハーン頂上付近の、山小屋の壁に鉛筆で書き付けたと言われている詩。出版はその35年後になってからのことで、詩集の中で、「旅人の夜の歌」と冠する別の詩の後に「同題」として出版したため、この名で知られているらしい。ゲーテ自身は、「憩いの歌(das Ruhelied)」とも呼んでいたそうだ。
 
そして、詩を書きつけてから51年後、1831年8月27日に再びその山小屋を訪れたゲーテは、その詩がまだ壁に残っているのを見つけ、涙を流したという。詩人の胸を走った想いの深層は知る由もないが、若き日を顧み、詩を読み、彼の心に立ち現れたであろう風景は、おそらく半世紀を経て「死」を知った一人の人間が見出したものだったのではないか。その時、彼もまた大切な人を亡くしていた。カール・アウグスト、ザクセン・ワイマル大公。ゲーテを高く評価し、公国へ招き、彼を政治に関わらせたその人である。1774年の出会いから半世紀余り、ゲーテと深い信頼と友情を築いた。そのアウグスト公も、1826年にゲーテを置いて世を去った。
 
憩い(Ruh)とは、ドイツ詩において、しばしば死の安らぎを表す言葉である。そこに囚われては、この詩の全てを味わうことは出来ないだろうが、どうしても忘れたくはない言葉でもある。
 
「やかて(やがて)汝も休らはん」そう西田が唄ったように。或いは、「アウグスト公は、もうこの世にはいらっしゃらないのだ」と、ゲーテが嘆いたように。この詩に関わった2人の人間の、死へと向けたまなざしのことを忘れては、この曲は歌えない、とも思う。
 
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終曲「ゲーテの歌」は、「休らうことのできない人間」の在り方を写し取ったかのような、混沌とした中間部を抜けると、秩序だった終結へと向かって、音楽が生成・発展していく。何かを受け入れるかのように、幸福な音で満たされていく。浄化されるように、納得するかのように、音楽は「完成」へと向かう。その精神性へ、問いと気持ちのみで届き得ないとしても、その音楽に向かって、ただ進んでみたいと思う。
 
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僕の忘れられない桜の景色というのは、実は咲いている桜のそれではない。
4月も始まったばかりの頃、朝の道行きの途中で桜並木に目が止まった。満開だった花が、幾許か散り、そこに、萌え出たばかりの若葉が揺れていた。
 
散りゆく命が、まるで新しい命に席をゆずるように。
 
桜は、花が散るのと入れ替わりで、葉が出る。そのこと自体はありふれた景色のはずだった。だから、間違いなく、その景色に心が揺れたのは僕自身の感傷のせいだ。当時の手帳に、その感傷をどうにかして残そうとした痕がある。
 
葉桜や 散りし命に 芽吹くあお
 
何気ないその風景は、僕の目に途方もなく美しく、掛けがえないものに映った。それは救いのようですらあった。
 
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1週間前、九鬼の墓前で手を合わせて、心の中で呼びかけた。
 
「お二人のことばを、歌にして歌います。いい曲が出来ました。」
 
そう心に発した時、胸からこみ上げてきたものの熱さを忘れることが出来ずにいる。
 
「いい曲が出来ました。」
 
亡き祖父と友のことを思い出し、そう心に繰り返して、同じ熱さがこみ上げてきた。
それはなんなのだろう。誇り? 自信? それとも背負うものの重みだろうか。
きっと、正体なんてどうでもいい。いや、もう本質は言ってしまっているのかもしれない。
 
「いい曲が出来ました。だから、どうか聞き届けてください。」
 
一人でも多くの方と一緒に、この曲と出逢うことが出来ますように。いま一度、こう言おう。
 
 
 
また春がやってくる。別れと、出逢いの季節が。