もがたり

「もが」こと、私・下河原のことを、のんびり語ります。

イマココワタシ

水曜日に、審査員をしてきました。練馬区大泉学園中学校の校内合唱コンクールのゲスト審査員として、審査・講評のお仕事。

昨年に続いてのお話で、楽しく過ごしてきました。音楽をするものとして、たくさん刺激を頂いた5時間余り。あらためて、関係の皆様にはお礼を申し上げたいです。

審査をしながら、各クラスの講評を書いていくので、とにかく感じたことをひたすらことばにしていくわけで、聴くのに集中していると文として形にできず、休憩中も必死に書いていたり(笑)

最後には全体講評として、お話をする機会もありました。とにかく、生徒さんの真剣な眼差しに包まれて背筋の伸びる思いをながら、なんとか何かを伝えて帰りたい、と自分なりに話したつもりですが……はたしてどうだったでしょうか。話すことは大まかに考えてはいたものの、いざ喋るとなると、やはり難しいですね。綺麗にはまとまらなかったかもしれませんが、届いているといいなぁ。

伝えたい想いを、どう形にして届けるか。そんなことを話題にしたのですが、まさに僕自身がこの機会に考えさせられたテーマでした。

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それにしても、中学生たちの純粋な姿には、心を動かされずにはいられません。それは歌う時というよりも、通路ですれ違う時、アナウンスの原稿を読む姿、クラス紹介、休憩時間のおしゃべり……。緊張も気負いも集中も決意も発散も、みんなまっすぐで。ともすればちっぽけな 、だからこそ純粋な、そんな心のかたちが見えるような気がして、わけもなく、「人の生きる姿」をそこに見たような気がするのです。

あらゆる些事を忘れて、イマココワタシに没頭できることは、どんなに純粋なことでありましょう。彼らの実際の体験については知る由もありませんが、僕が彼らの姿を通して幻視したのは、そういった純粋な「生のかたち」であったように思います。
イマココワタシを忘れられるのではなく、イマココワタシを離れられない、いわば幼さゆえの特権なのかもしれませんが、その生のありかたに、僕は憧れを抱いていたのかもしれません。

大人になるというのは、想像力や思考力、記憶や知識の増大と引き換えに、一面では、様々なしがらみを引き受けてしまうことなのかもしれません。無自覚な自縄自縛は、楽しい生のありかたにはつながらないんじゃないかと思います。

しがらみをなくすことはできなくても、それを忘れることができる時と場所を確保できたら。イマココワタシに没頭できる時間を過ごせたら、それはとっても楽しいことなのではないか……。

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あれから2日。緊張の糸が切れたのか、疲れがどっと出てしまい、幸せには程遠い時間を過ごしてしまいました。

ひとりぼっちだけれど、その実つまらないしがらみを消化しきれず、自分自身の今と向き合えない自分のすがたがあったように思います。

こうして言葉にしたところで、よく向き合えるようになるほど簡単なことではないと思いますが……彼らに負けたくない、という気持ちくらいはなくさないでいたいな、と思います。